新子安今昔(1)新子安には海水浴場があった~(10)

古くから住んでいる人、最近住むようになった人、でも意外と知らない自分の町。という人が多いのではないでしょうか。私は新子安で生まれて育って、そして親が建てた家を改築して今に至ってます。
そんな私も新子安の過去はよく知っているわけではありません。多少伝え聞いた事と少ない資料があるだけです。そこで、新子安の事をもっと知ってもらうためにこのページを作る事にしました。
Wikipediaやネットの情報以外を中心にして、新子安地域の今昔をたどってみたいと思います。私は60代ですが、この町内に住んでいる似た世代以上の方で、何か昔の事を知っている方がおりましたら、問い合わせ欄を利用して是非投稿ください。この部分の編集は私の方で進めます。   

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                           編集人 宮腰

                       

(1)新子安には海水浴場があった!

■ 海水浴場があった
実は新子安では、京浜急行電鉄が先に駅を開業したのです。京急の社史によれば、1910年(明治43年)に京浜新子安駅が開業しています。
JR新子安駅の開業が、1943年の終戦ちょっと前。なので、京急(当時は東京急行電鉄傘下)の方が38年も前に開業しているのです。すでに112年も経っていて、意外と歴史のあるのが京急新子安駅です。
その京急が新子安駅を開業した理由が、なんと新しく作った海水浴場にお客を呼び込むためだったのです。私が小さいころに、海水浴場があったという事は聞いていましたが、その当時はすでに海水浴場があったような面影は全くありませんでした。どちらかと言うと工場労働者が沢山通勤していたので、両駅とも工場のためにできた駅と言う感じでした。
古い地図をみると、やはり京急の駅が先にできており、海岸線も埋め立てがようやくできてきたような感じがします。
どこかで海水浴場のポスターを見た気がするのですが、ネット上では見つかりませんでした。その代わりに海水浴場の写真がありました。
その海水浴場も、関東大震災を経て、工業化がさらに進んだことで廃止されました。
私の知る限りで、私が良く行った海水浴場は本牧でした。今の三渓園の海側に海水浴場があり、そのころはそこが身近な海水浴場でした。そこに行った事がある人は。60以上の世代では結構いるのではないでしょうか?
その昔の地図でその変遷を見てみるとたいへん面白いです。以下の通り川崎から横浜まで広大な範囲の埋立地が作られたことが分る。明治初期では以下の通りまだその形すらでき上っていないし、横浜駅周辺は海であった事が良く分かる。それにしてもすでに明治の初期にこうした精密な地図が出来上がっていた事実もすごい事だ。徳川時代の文化の力の一端が見える気がする。

昔の地図の比較(今昔MAPより編集掲載)
左上:明治初期の子安のあたり、入江川があります。横浜線はまだ未開通
右上:2017から2024年代
左下:1944から1954年代
右下:1965から1968年代
横浜神奈川地区の地図(ネットより)
埋め立てた土地の先にできた新子安海水浴場で砂浜が無い?(ネットより)
埋め立てた先なのに以外と遠浅のようです (ネットより)
海の先には何も見えません。今と全く違います。(ネットより)
新子安にも料亭があった‼?(100周年記念誌より)
京急新子安駅完成 9年後の写真 (100周年記念誌より)

■ 京急新子安付近
上の写真は、開業してから9年後の写真であるが、海水浴場が無くなると、その後JR新子安駅が出来るまで京急新子安駅は工業地帯への労働者の通勤客のための駅になった。
京急が以前発行した地域情報誌にはかつての写真(1972年)が掲載されていた。その頃の京急新子安駅は、今のような橋上駅(1979年に橋上駅になる)ではなく、海側に改札口があり山側から来ると、踏切を2回渡らないと上りホームに行けず、上りの各駅停車が来ると乗客があわててかけているのをよく見た。人によっては踏切から直接上りホームに行く人もいて、朝晩はいつも混乱だった記憶がある。
京急の広報に聞いてみたが、これ以外に公開されている新子安駅の写真などはなさそうであったので、貴重な写真だ。

京急の地域情報誌(新子安編)より
左半分は京急新子安を横浜方面から撮ったもの。踏切が2つ見える
右半分上はホームを撮ったもの
右半分下は駅舎で改札・出札口が見える

その京浜急行の新子安駅前、今のバスのロータリー付近は大きな空き地で、実はここでいろいろなイベントが行われていた。ドサ回りの芝居や「ヘビ女」のような縁日に出てくるような催し物が時々行われていた記憶がある。私の兄の話では、テレビがあって、プロレスを見る事も出来たそうだ。今から60年以上前の事である。JRの駅前は本慶寺が目の前にある事もあって、今でもそうであるが商店はほぼなく写真館があっただけだったので今とそう変わらない雰囲気だった。
その代わり京急新子安駅から第1京浜(国道15号)に続くあたりや、路地に入ったところには小さい規模ながらも商店街と多くの居酒屋があった。今もその当時の居酒屋が数軒残っており、テレビの取材などに出てくることもあるが、その数は大幅に減ってしまった。その理由は湾岸地区工場が地方もしくは海外に移転してしまったためである。

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