新子安と言う名前は、 「子安」に新がついた 、まさしく新しい子安という意味であり、以前は「子安村」と呼ばれていた地域の一部だ。
明治の地図を見ると、東海道線が新橋-横浜間に開業したころの子安と言う地域は、非常に広範囲がカバーされている「橘樹郡(のちの横浜市)子安村」で、京急が今の新子安に駅を設置した時(1910年)に初めて「新子安」と言う名称が現れる。もちろん今のJR新子安駅などはまだ無いころだ。
その後子安村は子安町となるが、京急新子安駅が完成しても、「新子安」と言う町は存在しなかった。地域としては子安村の「打越」とか「溝下」という「字」と呼ばれる地区名称でした。
WIKIによれば、新子安になる前の子安は「 橘樹郡子安村の一部で、1911年(明治44年)に横浜市に編入、横浜市子安町の一部となる。1936年(昭和11年)11月1日、子安町字溝下・打越・神之木の各一部から新子安を新設。地名は、地元に定着していた通称から採られた。1966年5月1日に住居表示実施に伴い新子安・子安台・神之木台の各一部もって新子安一・二丁目を新設。1999年3月1日、入江一丁目の一部を新子安一丁目に編入」とある。
「地元に定着していた通称」 からとあるので、やはり京急新子安の駅名から町名が決まったと思われます。
下の方に昔の入江川付近の東海道の絵図を図書館で見かけたのでコピーした。
一之宮というのが地名だったようです。現代の「浜」である子安通り1丁目付近が新宿村で入江川の反対側は、西子安村だったようです。一之宮神社付近はやはり山で、その裏手も山だったようで、一之宮付近より高いですから、明治初期の地図の通りなのでしょう。
東海道線が出来て、京急新子安もまだできていない頃の地図には、海岸線が今の国道15号の先にある運河(首都高速)付近で、東海道沿いには民家が多少あるものの、入江川より横浜側の京急の子安付近(浜と呼ばれた地域)のように沢山の民家・商家はない。海岸側がそんな感じであったので、山側はまさしく丘陵地帯で何もなかった。今のオルトの駐車場付近が標高38m(現在の浅野山:銅像のあるところが標高39mだから相当高い事が分る)だったのだから、うっそうとしていたに違いない。
この地区で古いものと言えば、入江町の一之宮神社くらいで、新子安付近は畑と田んぼだけであったようだ。そのくらい「古いもの」は無い。
そう、古い物は無いのである。だから「新子安」なのかもしれない。
ところで新子安から大口駅に行く道の裏道として、新子安交差点で国道を渡り新子安2丁目公園に上がる道の手前を左手に行くと「猿田彦大神」という道祖神がある。
猿田彦大神の子孫が宮司を務める神社ですが、こちらは伊勢神宮ではなく椿大神社が総本社(https://tsubaki.or.jp/about/)のようです。
文献によると、「猿田彦大神(さるたひこおおかみ)はものごとの最初に現れ、万事良い方向へ導いてくれる、みちひらきの大神で、日本神話における天孫降臨の際に、天照大神(あまてらすおおみかみ)の命を受けた瓊杵尊(ににぎのみこと)を高千穂へと導いたのが猿田彦大神です。」とあり、ご利益はたくさんあるようですが、新子安にある理由は良く分かりません。
そんなに古い物かと思って、社をよく見ると「 猿田彦大神 保存会」が建立したもので、それほど古いものではなさそうでした。どなたか作られた謂れとかいつ頃からあるのかを知っている人がいたら教えて欲しいです。
ちょっと悲しいのは、上に上がる鳥居の両側が「ごみ置き場」になっている事です。このごみ置き場は町内会が管理しているだけに何とかならないのかなと思ってしまうのですが、仕方ないのでしょうか。
新子安(ここでは新子安1丁目と2丁目に限ってます)にはそうした古きよきものが無いのか?と考えている時に思い出したのが木陰にたたずむ石像です。 新子安駅から東京側の跨線橋をわたり 新子安公園前の道をずっと真っすぐ道なりに行く と スーパーOKの国道側の角のはす向かいの角地にひっそりとたたずむ石像が見えますが、年代は分かりません。古そうなのはこのくらいしかないですね。
このお大師さんの所有者は、社内的にも歴史のある事でその沿革は公開はしない方針との事でした。よっぽど大事なものに違いありません。
11月14日 :UP
12月5日:お大師様の所有者より紹介分の削除要請あり内容変更