(5)150周年と子安小学校

150周年というと新子安では子安小学校開校記念の事ですが、2022年の10月14日の前後の週は新橋・横浜間に鉄道が開業してから150周年という事で世の中はお祝いムードでいっぱいでした。
改めて思い返すと、その同じ150年も前に子安小学校が開校したというのは本当にすごい事です。それのおかげで、鉄道開業の翌年が子安小学校の創立記念の年だと簡単に覚えられますね。

来年の1月に子安小学校創立150周年の式典が行われるそうです。実際には2023年10月の創立で150周年になるわけですが、これは最初の「子安学舎」が一之宮神社の入江川に面している正門付近に出来た時から150年と言う事です。150周年の式典は、創立から21年後に「尋常子安小学校」となった、1894年の1月を開校記念日としているので、その開港記念日にの1月に創立記念日を行うのかと思います。
新子安に移り住んできた人は新しい町と思っている方が多いかと思います。しかし、実際には横浜でもかなり古くから小学校があり、実は歴史のある街であることを再認識するかと思います。

開校記念日で思い出すのは、私が4年生のころに90周年記念の事業があり、校庭で記念の写真を撮った記憶があります。そして100周年記念では、5/6年生に担任だった(大貫)先生が何かのインタビューに答えていたのを覚えています。その100周年記念として、その先生が100周年記念事業の中でも大変重要な「子安小学校百年史」の制作担当だった事もあり、記念史が出版されるので購入できるとかもしれないと言う話が先生よりあり、私の母親が買っておいてくれました。今になってみれば大変貴重な記念史です。(以下写真)

筆者手持ちの100周年記念史

先に説明の通り明治27年1月(1894年)に「尋常子安小学校」として開校して おり開校記念日は1月になってい ますが、実際にはさかのぼる事その21年前、明治6年(1873年)10月に第3大区4小区子安村(今の入江町にある入江川とJR鉄橋付近)にできた子安学舎が創立記念の日です。です から相当に古い歴史があります。私の記憶では確か横浜市で4番目くらいに古い小学校だったかと思います(山下小学校:中区➡石川小学校:中区➡豊岡小学校:鶴見区➡子安小学校)。(正確な事を知っている人がいましたら教えてください)
その子安小学校はこの辺りでは中核の学校で、その後いくつかの分校が出来てそれぞれが大きくなっていったという歴史があります。
一之宮神社の入り口鳥居付近には「発祥の地」の石碑が立っています。気がついた人はいますか?よく見ないと通り過ぎてしまうかもしれません。この辺りに初期の子安小学校があったことが分ります。 近くを通るときは是非見てください。

一の宮神社入り口(南側)にある「発祥の地」の石碑。130周年記念で建立したようだ

(編集人撮影)

100周年記念史より

WIKIにも情報がでていますが、浦島小学校、白幡小学校、港北小学校、西寺尾小学校などがそれぞれ子安小学校から分離独立したとなっています。
生徒数も昭和10年代は一時期3,000名を超えるような事もあったらしく、授業も2部制だったと聞いた事があります。かつてはものすごいマンモス校だったのです。私の時代が1学年6クラスで、それ以降から生徒が徐々に減少し、父親の死去のため実家に戻った32年前に私の息子が通っていたころは、3クラスしかありませんでした。時の流れと経済的な発展とともに小学校の規模も大きく変わっていきましたが、現在はまた1学年6クラスと言いますから、また時代は繰り返しています。
100周年記念事業の記念史より少しSCANをしたのでご紹介したいと思います。懐かしく思う人も多いでしょう。
今回150周年記念史をまた発行する企画があるのか分かりませんが、その場合にはさらに発見があって100周年記念史より内容が濃くなることを期待しています。
以下写真の下の方に、時系列で子安小学校を中心としてどんな動きがあったのかを示しますので、見ていただければと思います。
なお、新子安周辺には浅野学園の他に、現在は日吉にある日大の中・高等学校が大口にあった時期があるくらい学生が多かったようです。(他の新子安今昔に記載)

100周年記念史より
100周年記念史より
昭和10年の校舎で昭和後半に建て替えるまでこの形は残った(区制50周年誌より)

■ 子安小学校と周辺学校の変遷
時系列で追いかけると、以下のような歴史がありますが、子安小学校は神奈川の子安地区の中核をなす歴史のある学校で、一時期は中学校に相当する高等科も設置されていたようです。子安小学校自体は「子安」前後の名称をその時代の特性によって頻繁に変えましたが、子安はずっとそのままで、この地域の歴史そのもの名前となっています。子安からは、白幡小・浦島小/中・西寺尾小、西大口小、港北小、神奈川中、錦台中が分離独立しており、この地域のほとんどの公立学校が子安小学校から分離しています。それにしても昭和初期の生徒数の数は小学校も中学校も半端でないことが分ります。一体クラスに何名の生徒がいたのかと思いますね。

  • 明治5年(1872年) 10月14日:新橋・横浜間 鉄道開業(実際には品川・横浜間で6月には仮開業・試験走行が行われていたようですが、全区間開業した日を開業日としています)
  • 明治6年 6月10日:子安学舎開校・西子安 新宿地区 :この年を開校した年度としています(2023年で150年)が、開校記念日は明治27年に校舎が完成した日にしています。
最初の入江川付近の校舎敷地図:子安小学校記念史から
初期の校舎の外観:子安小学校記念史から
  • 明治9年:公立となる 
  • 明治12年8月:廃校となる 
  • 明治13年:公立子安小学校と改称 
  • 明治20年:尋常小学校となる 
  • 明治25年:橘樹郡子安村尋常子安小学校と改称 
  • 明治27年1月:新校舎落成(子安村字大字子安入江川1478番地➡今の一之宮神社の下周辺450坪で、この日を開校記念日と称している。 
  • 明治34年7月:校舎増築と高等科を併設し、橘樹郡子安村立尋常高等子安小学校と改称 
運動会の様子(入江川付近の校舎:子安小学校記念史から
  • 明治40年:学区域~子安、西寺尾、白幡地区までを含む。校地839坪➡この時、尋常科396名、高等科139名と言うからかなり大規模
一つのクラスの写真:子安小学校記念史より
  • 明治42年:増築し生徒数は、尋常科561名、高等科56名とあり、尋常科は6年生(今と同じ)、高等科は2年制だったようだ。 
  • 明治44年4月1日:神奈川県横浜市尋常子安小学校と改称し、子安町溝ノ下1479番地に移転:校地939坪➡この時に県と市の行政区が出来ている。 
  • 大正2年(1913年):校章制定(初めは子安の文字だけだったが、後日月桂樹で囲む) 
  • 大正8年12月4日:高等科強化を廃止し、浦島小学校へ分離 
  • 大正12年4月:神奈川県横浜市子安尋常小学校と改称 
  • 大正12年9月:関東大震災で校舎全損 大正15年4月:夜間部を創設
  • 大正15年12月:鉄筋コンクリート3回建て校舎が落成➡子安町溝ノ下1904番地(オルト前の旧校舎の場所) 
完工時の写真:子安小学校記念史から
  • 昭和2年(1927年)4月1日:高等科を再設置し、神奈川県横浜市子安尋常高等小学校と改称:尋常科1,366名、高等科112名 
  • 昭和6年:生徒数増大で増築、尋常科2,373名、高等科240名 
  • 昭和8年5月5日:養護学級を設置 
  • 昭和10年7月:青年学校設置、大口一部の生徒566名を浦島小学校に分離 
  • 昭和11年6月:白幡小学校創立 
  • 昭和16年4月:横浜市国民学校と改称 
  • 昭和19年:学校給食を開始
  • 昭和17年4月:西大口国民学校を創立し、ここは後に神奈川中学校となる 
  • 昭和18年:高等科廃止:生徒数(初等科)2,662名 
  • 昭和19年より学童疎開始まる。中川と新田(いずれも今の港北区) 
  • 昭和20年9月:学童(987名)戻り授業再開 
  • 昭和22年4月:横浜市子安小学校と改称、6+3年製による授業開始、浦島丘中学校が浦島小学校内で開校 
  • 昭和23年4月:PTAが発足 
  • 昭和24年:4月に西大口中学校(のち神奈川中学校と改称)として浦島中学校から分離。7月に港北小学校が分離独立 
  • 昭和25年5月:西寺尾小学校(生徒数400名)が分離独立 
  • 昭和26年4月:西寺尾小学校へ神之木エリアの生徒400名分離、子安小学校の生徒は44クラス2,100名となる 
  • 昭和27年3月:浦島中学校が現在の敷地に移転 昭和33年4月:子安小学校の生徒数2,314名。この年の8月に錦台中学校が神奈川中学校内で開校 
  • 昭和34年4月:錦台中学校が神奈川中学校より分離独立
  • 昭和39年3月:90周年記念祝賀式。生徒数37クラス1,635名
  • 昭和48年:創立100周年記念式
建て替え前の子安小学校:内部を改装時:子安小学校記念史から
  • 昭和57年:建て替え
  • 平成5年:創立120周年記念
  • 平成30年:新校舎完成し移転

最後に小学校への個人的な思いですが、昔と違い今は、高等教育への出だしの最初である小学校➡中学校への進学についても、何らかの評価(塾を含めた教育関係者とかマスコミが煽っている状況としか思えない)がされて、それに左右されているいる事に違和感を感じる人間の一人です。
私の時代でも、小学校から進学校と思える有名な中学校(国立・私立)に行く生徒がいたのは同じでした。実際私の6年生のクラスでは、私立に進学した男女もそこそこいましたが、一般的には国立の中学校に行く者を除けば、どちらかと言うと富裕層の子供が中心でした。どちらかと言うとお坊ちゃん・お嬢さんが行くような学校が多かったようでした。そして私立に行ったからと言ってその後の彼ら・彼女らの進学、その先の人生が幸せだったのかどうかは疑問が多いですし、本人しか分からない事でしょう。
同じ6年生のクラス同期で、近隣の公立中学・高校に行った者の中のその後で、東大➡NHK、中大➡東京高検検事になった同期もいます。逆に私立に行ったけれど、その後は?という人もいます。私立の中学に行けば、その次に良いと言われる高校や大学に行けるかもしれないですが、だからと言ってその先は全て本人の努力次第と言うのが私の実感ですね。
小学校から勉学で焦らせるよりは、自分で自ら何かを成し遂げる努力を身に付ける習慣を養うのが大事と思って子供を育ててきましたが、皆さんはどうお考えでしょうか?歴史のある子安小学校を思い出すたびに、そんな小学校であって欲しいと思っています。

■ 以下加筆追加した部分
子安小学校はこの地域の中核という事を書きましたが、実際今の新子安を中心として、半径2Km圏内には多くの学校がありました。そして今もあります。戦争前後には、企業が運営する学校(研修所的な学校)がありました。 その子安小学校ですが、開設時の初期の記録があります。明治7年の開校は、子安、青木、神奈川、菅田、岸根の5校が同時だったようです。記録によれば、教員はたった1名で生徒数90名。授業料は、1円83銭8厘だったようです。寺子屋のようだったのではないかと推察されます。

当時の記録(区制50周年記念誌より)

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