新子安の住民であれば、入江川をご存知と思います。古くから新子安地区に住んでいる人が持っているこの川に対するイメージは、「どぶ川」「ごみ川」といったイメージでしょうか?!
今はかなり清浄化されており、昔のような嫌なにおいがするような事は無くなりました。横浜港から遡るとして、川は“東浜”の一番北側あたりの入江橋より京急、JRの下をくぐり、横浜線沿いにずっと北上し、西寺尾・馬場の方までつながっています。横浜市によると、「入江川水系準用河川」となってます。管理されている距離は、2,390mとなっており。散歩できる程度の 距離 の短い川です。
その流れは、入江町から大口駅近くを通り、西寺尾にある「アクロスプラザ」の東側の道路の住宅街の裏手を通り、カーブを描きながら、「入江せせらぎ緑道」と名前を変えて、さらに上流の方に上がっていきます。この上流の状況については、驚くほど調べている人がいて、ネットにも紹介されています。これは以下のリンクを参照にしてください。入江川が暗渠となった先まで調べており、写真も含めてその内容に感心します。なので、詳しくはこちらを見てください。
➡ 参考:https://ichihashi.me/wp/?p=29623
ところで、入江川の源流となる流れは途中アクロスプラザの付近より2手に分かれており、1つは右手すなわち東方向にぐっと曲がって行きその先にある、白幡公園や近くにある馬場花木圓(横浜市が管理している旧家の残る庭園:https://www.hama-midorinokyokai.or.jp/park/babakabokuen/)にもつかつてつながっていた可能性もあります。さらにさかのぼった上流ですが、 源流と言っても湧水が出ているとかいう事はもうなく、暗渠になってしまう上流の手前には水が噴き出している所があります。 ただし、これは馬場にある横浜市の配水塔からの水と思われます。ここからの暗渠はずっと行くと、国道1号の「荒立交差点」近くまで登っているのが分ります。ちょうど国道1号が盛り土で左右より高くなっているあたり(紳士服青木の横)です。実際には暗渠となっているので終点は分かりません。先に示したネットの情報を見ると分かります。
もう一方の流れは入江川がアクロスプラザから右に曲がって300mくらいの所で左手に分岐しています。ここから暗渠になって(舗装しているので埋まったことが分る所)建功寺と言うお寺の横につながり、暗渠から出てきます。ここも「せせらぎ緑道」となっており、レンガ張りの歩道がずっと続きます。最終的には、入江遊水地という地下に貯水槽のある広場にたどり着きます。ここは横浜市の道路局が管理しおり、中には入れません。この遊水地は昭和60年にはできていたようで、中の貯水量は26,700㎥あるそうです。要は洪水対策のための空っぽの空間が地下にあるという事です。
その遊水地を過ぎるとまた暗渠となり、微妙に折れ曲がったルートの先にある、ここら辺だけ何故か森があるのかというような山陰に吸収されているように思われます。この森の横には、道祖神の「寺尾高札 庚申塔」があります。その先にも、「獅子ヶ谷市民の森」と言うのがあるので、もしかするとここにもつながっているかもしれません。いずれにしろこの付近が分水嶺と思われるので、これ以上北には行けません。
どちらも、長さ的にも大した距離ではないので、歩いてたどるのも面白いかもしれません。
ところで、寺尾と呼ばれる地域には、「高札」と言う「立て札」と、場合によっては道祖神のような石碑が一緒もしくは単独で設置されています。地図で調べた限り以下の高札・地蔵・碑などがあります。 見るとこれはいったい何のためか?と思います。以前私も寺尾から馬場付近を散歩中に見かけた事がありましたが、その時は何にも気にかけませんでしたが、調べるといろいろ面白い事が分ります。
- 庚申塔(青面金剛立像:西寺尾2-29:民家壁)
- 入江川せせらぎ緑道(馬場1-5-30:建功寺脇)
- 湾前(ワンメ)(馬場7-19)
- 綿内谷(馬場2-23:公園左側)
- 馬場の赤門:旧澤野家長屋門(馬場2-23)
- 馬のメド坂(馬場2-13:丘陵地TOP)
- 馬頭観世音(馬場4-33-29)
- 馬場谷戸庚申地蔵塔(馬場4-20-5)
- 心願地蔵(東寺尾6-33)
- 庚申塔:青面金剛(東寺尾6-36:眼鏡橋脇)
- 田中弁天(馬場3-21)
- 成願寺跡(東寺尾2-21)
- 鍛冶屋敷跡(東寺尾1-14)
- 庚申塔(馬場3-5)
- ディダラボッチ(馬場3-5)
- 赤坂(西寺尾1-33)
- 子の神様(東寺尾1-17)
- 宮の下(東寺尾2-13)
- 庚申塔(馬場3-9-4)
- 馬頭観音(馬場1-1)
- ハネキ(東寺尾1-10)
- 庚申塔:地蔵菩薩(馬場3-3)
- 青面金剛合掌立像(馬場7-4)
- 寺尾稲荷道(馬場7-4-26)
- 庚申塔(北寺尾7-26)
- 麻をつくらない村(白幡神社)
- 寺尾城址の碑
- 上遠牡丹園(北寺尾6-7)
- 地蔵と庚申塔:青面金剛立像(獅子ヶ谷3-32)
- 愛宕坂(東寺尾6-13-5)
※以上はGoogleMAPで調べた属性データをそのまま記入しています。
この中の「寺尾城址の碑 」に注目すると、その昔お城があったことが分ります。
今年ブームになった、源と北条ですが、この辺りに山城(砦みたいな物でしょう)があったのを、北条氏の家臣であった信州の豪族、諏訪氏が築造したと言われています。その鶴見の丘陵地帯に城があったというのがちょっと信じられませんが、ともかく城がありました。 城があったという事はこの辺りは住民がいて、行政があったという事です。
こうした背景のもと、中世から江戸時代にかけて、民衆向けの法令を公示するために使用したのが、この高札だったようです。その歴史を振り返り、自分の住む町(ふるさと)の言い伝えを伝承するために、地域の人たちが立ち上げたのが「てらお奉行」と言う事らしく、その一環で高札を建てて増やしてきているようです。
そんな昔の事を調べて、活性化のために実現している事は実に素晴らしいです。
ところで、この高札などを1周するとお遍路巡りではありませんが、面白いかもしれません。実際ネットではハイキングコースのように回った事が投稿しています。「寺尾の高札巡り」で一度検索して見てください。そして歩いて見てください。(編集人は散歩でこれらの一部を見た事がありますが、今回調べて初めて背景が分りました)
さて話が逸れてしまいましたが、以上が入江川の本流にあたるところですが、ずっと下流の、以前高梨乳業の工場があったあたり(一之宮神社近くの急坂を下りて突き当たったところ)で、入江川は支流を持っているのです。土管でつながっているようなので、支流という感じはしませんが、その昔はしっかりとつながっていたと思われます。
今の横浜線を建設する前は、おそらく分岐がきちんと分かれて、見える様な支流だったのかと思いますが、横浜線が東海道線・京浜東北線・貨物線を立体的に乗り越える必要があって、かなり手前である今の大口駅付近から土手を築いて、鉄橋でそれらの線路を跨ぐように設計されました。その都合で「足洗川」は横浜線の下を通るような支流になってしまったのでしょう。横浜線の土手には大きなマンホールに使うような土管がありました。また近くの「大安公園」(すごく小さな公園なので見過ごすかもしれませんが、入江川を渡る橋を左に曲がったところにある公園)には「足洗川 子供の遊び場」という看板があります。さらに、Google MAPで近くを見ると、しっかり看板と同じように、ランドマークが書かれています。
私は暗渠がある事は知っていましたが、きちんと名のついた川であるとは全く知りませんでした。恐らく大方の新子安の住民は、入江川のみと思っている人が大多数と思います。
川はここから暗渠になります。横浜線をトンネルで通過すると、大口通り第1商店街に入りますが、左手の方の路地に、私が小さいころにすでにコンクリートで覆われた川らしきものがあった事を覚えてます。その川は暗渠で大口通り商店街の通りと平行に走り、第2京浜をまたぎ商店街の横を通り、途中曙商店街の少し手前より西に向きを変えて、裏路地の横を通り、曙商店街の出口付近で暗渠から少し顔を見せていた時期がありました。それにその近くには、橋もあった気がします。
その枝の川は更に、近くにある、池に亀が住んでいる(成田山)七島不動尊の池につながっていたのではないかと想像しています。
そして足洗川は、七島商店街(今は無いに等しい)の下を通り、道路をまたぐと今度は東電変電所の北側を通ります。暗渠があると思われるところは、ほぼ歩道になっており、狭い道にも関わらず何故か車道と比較的ちゃんとした歩道があるので違いが分ると思います。東電の変電所を過ぎると、歩道がガードレールで仕切られており、 これは車が通れない遊歩道のようになっていて、 住宅街をよろよろと左右に揺られながら小道となっておりその下に暗渠があると思われます。ここを過ぎると横浜市営バスも通る比較的太い通りに出ます。不思議な事に、先ほどの道より幅は倍以上あるのに、ガードレールも歩道もありません。
この先を行くと、5差路のような信号のない交差点に進みます。そうするとまた遊歩道のような道が左手に見えてきます。ちょうど白幡向町の町内会の掲示板があるところです。(ちなみにここの町内会のホームページは、しっかりと作ってあり、感心しました。)この先を歩いて行くと、白幡小学校の北側を通り、道路にぶつかり、右手に「白幡地区防災センター」という建物が見えますが、暗渠の遊歩道は続きます。そして少し右に折れたところの先はなんとそこはもう東横線です。ここでばったり情報は切れました。しかし、東横線を渡り少し横浜方面に歩いて右に曲がった先に「白幡池」があったので、地形的に見てももしかするとここにつながっているではないかと思いましたが、はっきりしません。
そこで昔の資料関係をもう少し調べると、興味深いことが分りました。
横浜市の雨による水被害の調査文書が見つかり、この白幡向町付近は、昭和40年代に大雨が降ると洪水になり床上浸水することがあったようです。そのために足洗川はたびたび改修工事と下水幹線工事をするようになったみたいです。そして足洗川の源流は、白幡池ではなくもう少し先にある、武相中学・高等学校近くを源流としている書いてありました。とすると、足洗川は距離的には入江川の本流と大して差が無いくらい長い(?)川のようです。それにしても綱島街道を越えて東横線を越えた先までつながっているとは思いもよりませんでした。
以上の情報をもとにもう一度地形に着目すると、東横線を渡ったところで、また住宅街をよろよろ行く小道があり、その先には菊名池公園がありました。今はプールしかありませんが、かつてここには「菊名池」がありました。なのでもしかすると、菊名池が源泉だったのかもしれませんね。
さらに面白いのは、足洗川の源流に近い所には、白幡地区であり、もう一方の入江川の源流に近い所には「白幡公園」がある事です。どうして白幡になったのかはさっぱり分かりませんでした。もしかしたらこの地区に住んでいる方が知っているかもしれません。
最後に1896年~の地図を再度調べたところ、足洗川は意外とはっきり書かれていました、それをベースに、現在の地図上に足洗川だけを赤色で線を引っ張ってみました(東横線にぶつかるところまで)ので、すこし状況が分ると思います。このころはしっかりと足洗川が地図上で描かれているくらいですから、ある意味重要な川だったと思います。
最後に浦島太郎伝説ですが、これは日本中で結構残っている伝説で、横浜での伝説は神奈川区の浦中のすぐそばの、「本照山連法寺」がメインです。新子安地区から浦中に通う生徒は、だいたいこの寺の横の坂道を登って通学しているはずです。この寺に関する浦島太郎伝説は、ネットでもいろいろ書かれていると思いますので、興味ある方は自身で調べてください。
そして 今回テーマにした「足洗川」は浦島太郎伝説にも関係しており、竜宮城から帰ってきた浦島太郎が、この足洗川のそばにある「浦島の足洗い井戸」(子安通1-186)で足を洗ったとの言い伝えの話があります。そして、それを記念した石碑が「足洗の碑」(大口通18-1)です。入江川からは少し離れますが、神奈川新町に近い「亀住町」(京急の検車所のあたり一帯)はまさしく「亀」につながっており、そこには「浦島地蔵」(浦島公園横)があります。
入江川一つをとっても、このように存在自体の裏側にいろいろな話があります。たまには新子安周辺の方に足を向けて散歩してはいかがでしょうか?