(11)新子安に松竹の撮影所があった!➡地図から読み取れる事のおもしろさ

つい最近、新子安今昔(1)~(10)を見ていただいた、隣の入江町内会の方から、手書きの古地図をいただきました。 (送っていただいた方に改めて御礼申し上げます)
この古地図の元の所有者は、子安小学校がまだ子安尋常小学校であったころの敷地を持っていた方で、手書きで古地図を作ったらしいです。 気になる情報がいくつかありました。 その中の一つが「松竹新子安撮影所」と言う手書き記入があった事です。 そこで裏取りのため少し調べてみると、「シネマー撮影所」という事で公式な地図にその記載がありました。
調べた地図は昭和3年に作成され、同18年に修正され、同22年5月に製版された地図(横浜市よりDL出来る)です。 恐らく戦後の復興のために用意された地図で、横浜市復興局が作成しています。
この地図に、現在の子安台公園より浅野学園の北側一帯付近が「シネマ撮影所」と記入されているので間違いありません。しかしながら 昭和2年には経営難で閉鎖となったようですが、この地図にはまだ記載が残っていたようです。 時期的には今の第2京浜(国道1号)が出来る前の事だったようです。

ネットからの情報をまとめると;
・ 撮影所は昭和2(1927)年完成。茅ヶ崎にも同じものを作っており、子安は第2撮影場と言われてもいた。
・ 当時の松竹の大船撮影所より大きい敷地だった。(3万坪:横浜スタジアムの約3.8倍)。
・ 「シネパーク子安撮影所:のちにシネパーク新子安撮影所」と呼ばれていた。
・ 実際には松竹の蒲田撮影所の舞台装置の人が作ったものらしい。 
➡ちなみに松竹蒲田撮影所は、今の蒲田駅の東口、区民ホールである「アプリコ」のあたり一帯だったようです。
・ 撮影に使うきちんとした電気設備もあった。(照明用)
・ 開所時はまだ国道1号は未開通で、周囲は山林に囲まれて野外セットとしては最適だった。
・ 撮影時は見物人でにぎわっていたらしい。昭和2年に経営難となり閉鎖。看板などはずっと残っていたらしい。
・ 場所的には現在の浅野学園の裏手で子安台公園と生麦中学校からの稜線より国道までの西側の谷間全てで、国道1号の南側で打越公園とぶつかる道路の北側から、浅野学園南側のJR線沿いの道路と交差する道路と交差するエリア一帯。3万坪は99,000㎡ですから単純計算で約315m X315mであり、相当な広さだったようです。

上記の記事には生麦中学の一体とあるが、下記の地図からみると実際には生麦中学校のある上の方からずっと下の方の国道1号沿いにあったものと考えられる。

以下に横浜市が提供している横浜市復興局の地図を載せますが、そのあたりとおぼしきあたりに(赤)線を引いてみました。今子安台にある住宅地はすっぽり入ってしまうような感じの広さです。(左から2つ目のメッシュのあたりに、”シネマー撮影所”と書いてある:横棒線の上)

横浜市で公開している戦後復興期の地図(興味ある方は以下でDL出来るようにしました)

ところで、現在アクセス可能で見る事が出来る明治以降の地図から、その頃からの地形変化を見ると面白いです。
撮影所が出来たころは、新子安が当時は「溝下」と呼ばれていた頃で、今の浅野学園が出来つつある頃のようです。さらに古い地図を見ると、周辺地区として、東寺尾町、西寺尾町、子安町、白幡町などはありますが、新子安・入江町は溝下(字と呼ばれる地区名)と言われていたようです。神之木や大口も同じように地区名だったようです。

子安小学校は現在の入江町の一之宮神社の下の方にあるあたりで産声を上げ(1873年:なので来年が150周年記念)、1926(大正15)年に前の場所(オルト前)に移転しましたが、その頃横浜線はまだ計画路線でした。
撮影所が出来たころはすでに昭和に入っていたので、横浜線も開通していましたが、まだ途中駅としての大口駅が開業(1947年)する前の事です。

調べる前は予想もつかなかった事ですが、大口駅が出来る前のそのあたり周辺(駅の北側から踏切を越えた入江町の横浜線ガード下付近まで)には中学校がありました。日本大学第4中学校/商業学校(地図では中学校:1930年開校で、太平洋戦争の空襲ですべて焼失し1947年に日吉に移転)があったのです。この学校の移転で大口駅が出来たようなものです。今の進学校の一つにもなった学校が大口にあったなんて想像もつきませんね。
また、今の神奈川中学校の前には京浜女子高校(1940年開校)というのがありましたが、これと少し重なっているのですね。今は創英中・高学校となっていますが、すでに浅野学園もあったのですから、考えてみると子安一帯は学園地区だったわけです。
面白いのは、国道1号入江交差点を中心に半径1.5Km圏内に、子安小学校、浅野学園、生麦中学校、岸谷小学校、錦台中学校、神奈川中学校、浦島丘中学校、浦島小学校、創英中・高学校、西寺尾小学校、西寺尾第2小学校、大口台小学校などが入りますから、かなりの学校数があるのが分ります。

子安小学校の黎明期の頃の地名ですが、新子安も入江町も子安町の中では、子安町の中であり、また溝下とか打越(字名)などと称されていたようです(地図参照)。溝下地区と言うのは残っていませんが、打越は公園名で残っているのがおもしろいですね。白幡というのは、浦中の北側一帯とばかり思っていましたが、鶴見区の東寺尾付近も白幡という地区があるのは何でしょうか?これは良く分かりません。知っている人はいますでしょうか?

地形的な事ですが、今の新子安・入江町地区内で言えば、浅野学園のありあたりから現在の入江川あたりまでは、明治の初期のころは丘陵地帯でした。東海道線の位置を見るとこの丘陵地帯の切れ目のがけ下に設置されているのが分ります。専門家ではないので何とも言えませんが、このラインはいわゆる河岸段丘の様な感じで、東神奈川から鶴見まで続いていますが、その山側を削り取ったという事かと思います。

新子安駅付近を描いた古い絵図 (子安小学校100年史より)

上の古い絵図は江戸時代のものです。子安浜から生麦に至るまでの4部作の絵図です。 そのうちの一枚のこの絵図をよく見ると、左側ページの子安村の山の麓に「本慶寺」とあります。その山は右手(東京側)の方に連なっています。しかもそこそこ標高のある山と推定できます。 これは何を意味するかと言うと、この山の麓に東海道線が作られる事になったという事です。 そして、新子安一帯はその昔平ではなく、丘陵地帯であり山があったという事です 。

実はこのこの丘陵地帯(新子安駅の今のオルト付近でから今の浅野学園の西側の道路付近までで、ピークは現在のオルトの駐車場付近で標高38mと古地図にあります。現在の浅野山:銅像のあるところが標高39mだから相当高い事が分ります)の土を、新子安の海岸沖に造成している埋立地に持って行って埠頭を作ったとのことです。それで今の新子安の西側から一之宮神社手前にかけてがほぼ平坦になっているのです。
思い越してみると、自宅の前の新子安公園はかつては小高い丘があり今の産業道路があるあたりも含めて子供たちの遊び場でしたし、今も山の雰囲気のある入江町公園は、その昔「ぼうず山」とか呼ばれていて、山の斜面で段ボールを引いて山下りをしたりして遊んだもんです。なので、丘陵地帯の雰囲気はあったのかと思います。それらの場所は埋立地のために土を持っていた跡地だったのですね。
その埋め立て工事は、(10)で触れた、浅野総一郎の持っている会社、東亜港湾工業が行ったので、今の浅野学園の西側で山をカットし、その西側から一之宮神社付近までで、ちょうどいま国道があるあたりまでの土を持って行ったという事でしょう。また国道1号が通っている付近はちょうど谷間に沿っているようですが、それでもかなりの土を削っていると思われるので、これらも埋め立てに使われたに違いありません。 それにしてもこれだけの土をどうやって運んだのでしょうね?当時大掛かりなベルトコンベアなどはなかったように思いますから、大変な作業だったと思います。

道路の視点で見ると、大正時期に今の入江橋(国道1号と太田神奈川線~大口東病院/ドンキの前の通り~が交わる地点)からずっと直線の通りが北上するのは今と全く同じです。この道路の先に高速のインターチェンジが出来るとはだれが想像したでしょうか?
こうして古い地図と現代を比較するだけで様々な発見と疑問が見つかります。長く住んでいる人も、最近引っ越してきた人も、一度自分の住んでいるあたりの歴史を振り返ってみるのも面白いと思います。何か皆さんで発見があれば是非お知らせください。

以下に地図を年代ごとに貼り付けますので、道路、標高、線路、施設など、地点の属性が時代とともに変化しているのを見てください。ほぼ同じ位置関係にしていますので変化が分ると思います。また、上記に書いた施設などもどこにあるか分ると思います。なお1900年より前には、今の子安台公園付近に大きな池(?)があったようです。その池は埋め立てられて、そのあたりを国道1号が後々できたという感じです。入江川は今も昔もほぼ同じところを流れているようです。

1896年以降の地図(子安小学校の前身がすでにできている。線路際は小高い山)
1917年以降の地図(京急新子安はすでにある。山側はそれこそ山ばかり)
1927年以降の地図 (JR新子安駅はまだなく、新子安一帯の山(丘)が削れている
横浜線は出来ているが、国道1号はまだ無い。横浜市電が設置されている。
埋立地には工場が出来かかっている。
このころ「太田神奈川線」の道路が完成
1947年以降の地図 JR新子安駅が出来る少し前で現代に近くなっている。
大口駅もまだ無いが今の大口駅近くに学校(日大付属)がある。
埋立地には工場が沢山出来ている。 

実際の地図から前のページの推定した部分をまとめてみると以下のようになる。やはり山の麓に沿って東海道線が敷設されているのが分る。 の地図は明治初期の地図で、まだ横浜線が計画路線という事で路線が実線になっていない。

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