(10)浅野総一郎と埋立と学校

浅野総一郎と言えば、新子安にある浅野学園の創始者だ。
そして小さいころは浅野総一郎と言えば、浅野山の上にある銅像の人と覚えている。 当時から平成になるくらいまでは地域住民に浅野山は解放されており、自由に山に登ることが出来た。 特に春先の桜は見事に咲いて、新子安の住民の目を楽しませてくれたが、今はそとから眺めるしかない。
隣の子安台(自衛隊)公園と並んで景色・見晴らしは最高で、この銅像のあるあたりでよく遊んだものだ。 恐らく中に入った人はもうあまりいないかもしれないので、一度は見れるような機会があると良い。
しかし、残念ながら現在は自由には入れない。近隣住民へのサービスとして、身分を証明するものを提示したら、銅像までは行けるようにしてもらえるとありがたいと思うのだが、新子安周辺の皆さんはどう思うだろうか?

その浅野総一郎が作った浅野コンツェルンは、川崎から横浜までの埋め立てを行った事業家であり、今の横浜の礎を作った人といえる。 この人がいなければいないで、恐らく誰かがやったと思えるが、やはり誰よりも先に埋め立て事業を立案して、実行したその力量はすごい。
時系列で埋立地の様子を入手可能な地図で見ると以下の様な変遷を見ることが出来る。(出展:国土地理院地図利用の今昔マップ)

【1898~1909】
【1917~1924】
1927~1939】
【1944~1954】
【1975~1978】
【1922~1995】
【現在】

以上の地図から読み取れるように、現代の人は何らかの形で彼の事業の成果の恩恵に浴しているはずだ。
かなり前だが、編集人の叔父が勤めていた埋め立てのための専門会社(今の東亜港湾)を作り、それに使うセメントの会社(今の太平洋セメント)を作り、工場を作るために鉄鋼会社(今の日本鋼管➡JFE)を作り、工場を動かすために電力会社(いくつかの電力会社に投資)を作り、それらを運ぶために鉄道会社(今のJRの一部)や船会社まで作り、それらの会社を支える人材育成のために学校(浅野学園)を作り、それまで行ってきた事業を記録にとどめるために映画会社まで作ったというからすごい。失敗に終わった事業も沢山あったようだが、そのおかげで京浜工業地帯が出来た。
渋沢栄一が明治維新後の日本経済を動かしてきたが、それを共同もしくは単独で支えてきた浅野総一郎の功績は偉大だ。戦後財閥解体の影響を受けたようだが、彼の遺産は様々な会社に生きているのかと思う。
鉄道オタクには有名な鶴見線(このJRの鉄道線も実は浅野総一郎の会社が作ったもので、その後国鉄に買収されている。南武線なども同様だ)は、今は都会のローカル線になってしまったが、その沿線は全て浅野総一郎が埋め立て事業で作ったものだ。 「浅野」と言う駅名があるが、これは本人の名前からとっている。

その浅野総一郎が1920年に開設した学校が浅野総合中学校で、すでに100年を超える中高一貫校になっている。浅野学園と言うと毎年偏差値の高い国立・私立大学に沢山の卒業生を送り込む進学校のイメージが強いが、それはこの30年くらいの事で、昔はどちらかと言いうとバンカラな感じのする学生が多かったと記憶する。そして、私の小さい頃の記憶は、コンクリートを作る学校というイメージが大きい。学校の歴史から言っても、おおもとは浅野セメントという背景もありコンクリート工学を教える専門学校がスタート(1925年開設)だった事もある。実際私が小さかった頃は、学校の入り口左側にはコンクリートブロックや、土管などが沢山置かれていて、学校という感じはしなかった。そのあたりには小さな池もあり、子供の遊び場として結構お気に入りの場所でもあった。
そのコンクリートを作っていた学校は今は工学専門学校として存在しており、専門学校であるが4年制の建築学科があるのは、そういった歴史があるからかもしれない。

↑神奈川区の古い写真を集めた本から
浅野学園入り口の右側にあった池(当時の子供遊び場でもあった):子安小学校100年史より

以上の写真の通り、学園の校歌が掲載されているが、今とあまり変わらない銅像のある山側の地形が雪景色のなか綺麗に写っている。左側の建物がコンクリートを作成する作業場所で、その右側四角い建物(ビル)には何かを検査するためなのか機械が沢山置いてあった。
うしろの山には、浅野総一郎の銅像があるのが見えるが、この山一帯は開放されていて、当時はだれでも入れる憩いの場であり、近隣の子供にとっては自然が沢山ある遊び場であった。

その当時、浅野学園が設立されたところは子安台という町に分かれる前の事で、まだ新子安も入江町もなかった頃で、旧子安町に属していた。実はその子安町には 浅野学園の他に、 私立の学校として日本大学の付属である、日本大学第4中学校(今の中高一貫校と同じ)・商業学校が現在の横浜線大口駅西側一帯から、第2京浜(国道1号)付近までの地域にあった。生徒数(商業学校含めて約1,300名)から見ても大変大きな学校であったと思われる。(下の表を参照)
その後、日大付属高校は戦災による焼失で、東横線の日吉に引っ越してしまったが、子安小学校や浅野学園があったからこそ、設置されていたのかもしれない。

上記の表にある学校はその後・・・
・日本大学第4中学校:現在の日本大学中・高等学校(日吉)
・神奈川県立横浜第一高等女学校:現在の県立平沼高校
・神奈川県立横浜第二中学校:今の県立翠嵐高校
・神奈川県立工業学校 :現在と同じ
・神奈川女学校:現在の神奈川学園

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